【 Tone 0.Prelude(前奏曲) 】~ The seeds of time(時の種子)~
- Aureilia

- 3 日前
- 読了時間: 37分
更新日:20 時間前
ἄειδε θεὰ
響かせ給え、生命(いのち)の弦を。
世界を織り成す水の女神、瀬織津姫よ。
導き給え、普遍なる北極星よ。
引き裂かれし星の子らを。
記させ給え、明けの明星よ。
失われし魂の故郷、Lyra(リラ)の正史を。
我は星と魂の書記官、Aureilia。
宇宙大戦を越え、地球(テラ)に降りし星の種子の、幾星霜の弥栄を祈り
この書、『 Star-Crossed Souls 』を捧げる。

ふと視線を感じて、藤川 佳帆(ふじかわ かほ)は足を留めた。
振り返ると、琵琶湖疏水沿いに建つヨガスタジオの、ウインドウに貼られたポスターに写った人物が目に映った。青白い肌をしたヒンドゥー教の「ヴィシュヌ神」を思わせる風貌のヨガマスターの瞳は、深海のような碧を湛えていた。
どこに立っても目が合うように、玉眼を嵌め込まれて彫られた、阿弥陀さんみたいや…。
そう独りごちて、ウインドウに近づく。
プラーナ食の聖人、世界的ヨガマスター、ジョーティー・カッサパ来たる!
金星トランジットを経て、エネルギーを次元上昇させる一日
【 ジョーティー・カッサパ(Jyoti Kassapa) 】
シュメールの血を引くイラン系ヨガマスター。 「光を飲み込む者」という名前を持つ。
2004年、そして2012年の「金星の太陽面通過(ヴィーナス・トランジット)」の光を網膜に焼き付けたことで、松果体が完全に活性化。以来、物質的な食物を一切摂らず、太陽光と大気中の微細エネルギー「プラーナ」のみで肉体を維持する『不食(リキッディアン)』の聖者として知られる。
彼が説くのは、単なる健康法ではない。それは、肉体という「重い物質」を、宇宙のリズムへとリマスタリングし、魂の周波数を次元上昇(アセンション)させるための、失われた古代の叡智である。
プラーナ食? 金星トランジット? 何やわからんけど、面白そう。
衣装デザイナーの佳帆は、ちょうど作曲家のクライアント、赤池 光(あかいけ ひかり)から、新作のピアノとチェロの二重奏のための衣装制作の依頼を受けていた。
そういや光さん、「今度の曲は『羽衣伝説』がモチーフなの」て言うてはったな。天女は月に帰るけど、地上の物を口にしないで生きる感覚ってどんなんやろ。何か、インスピレーションつかめるかも…!
何事も思い立ったら一直線。佳帆は、迷わずスタジオのドアを開いた。
2019年12月22日11時
「あなたの、原始の風景を視にいきます。ゆっくりと息を吐いて……。深呼吸を繰り返したら、深い腹式呼吸に変えます。目を閉じて…1,2,3,4……」
そよ風のような心地よいバイブスを響かせて、ジョーティーの静かな声が、意識を沈めていく。
安楽座(スカーサナ)の姿勢を保ち、鼻孔をくすぐる芳しい薫りに誘われ、佳帆はゆっくりと瞼を閉じた。

深遠な宇宙空間に浮かぶ、眩しく漂う光の川。
その川で、私は1人、布を浸して何かを染めている。
白い服を着て髪は長く、袖は長いけれど着物でも巫女服でもない、原始的な衣をまとっている。
日本人ではなさそう…。遠くてわからないけど長いローブのようで、『指輪物語』でエルフが着てた衣装に似てるな…。
私の魂のオーラカラーは乳白色のオパールのようで、淡いピンクや紫が、光の屈折で時折り小さな虹を描いている。
ゆったりと流れる光の川は、宇宙の叡智が集まっているらしく、よく見ると一つ一つは光の粒になっている。 大河となった光の川は、中心で渦を描く泉に注いでいる。そこは、魂の源であるらしい。「個」の光の粒は集まることで相互に情報を集積し合う集合意識となり、「個」の経験値は「全」に伝わり、溶け合ってワンネスになる。
また、この魂の泉には、宇宙と地球を結ぶ回路があるようだ。
多くは夢やインスピレーションの形で結ばれる。「全」から未だ発見されていない地球の進化に必要な閃きやイマジネーションが泡となって涌き出し、泉から必要なタイミングで「個」に伝えられている。
私が布に浸して染めているのは、宇宙の叡智。
そして、布の色を通して個の魂の成長をガイドし、エーテル体を護る役割がある。
その仕事を、ただ1人泉のほとりで行っていた。
そう、それは『源の光の泉』……。
金色の粒は、寄り添い、たゆたい、ゆっくりとした速度で螺旋を描いていく。一つが別の粒にぶつかると、キン、とそこに青い光が立ち、情報がさざ波のように伝播されていくようだ。
個であり、全である。大いなる源。
――ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし……。
佳帆の脳裏に、鴨長明の『方丈記』冒頭の名文が浮かんだ。
「それでは、ゆっくり目を開けて……」
深い水底から響いてきたような声に、ふっと意識が引き戻される。
「もし、何かビジョンが視えた人があれば、シェアしてください。……右端の、あなたは?」
「あ……、はじめまして、藤川佳帆です。あの……光の粒がゆっくり流れる場所に立って、粒が雄大な川になって動いていくのを視ていました」
ジョーティーの不思議に碧い目が、驚きにわずかに開いた。
「一つひとつの粒は意識を持っていて、隣の粒にぶつかると、シナプスみたいに意識が共有されていくんです。個としての意志はあるのに、すべては一つでした」
「あぁ……、あなたも、同じところに行ったのですね……!」
ジョーティーは静かに息を吐き出した。
「Kaho、あなたが視たその光の大河は、宇宙の原初の響き……『AUM(オーム)』そのものです」
ジョーティーは、自らの喉の奥から響かせるように低く唱えた。
「『A(ア)』は、目覚めている意識。私たちが肉体で世界に触れる、この現実。『U(ウ)』は、夢見ている意識。あなたの潜在意識が描き出す、まどろみの海。『M(ム)』は、眠りの中の意識。個の形が溶け去り、深い静寂に包まれる暗闇。人々は、この三つの状態を行き来して一生を終えます。ですが、その三つの音の背後にある『静寂』こそが、真の目的地なのです」
ジョーティーの瞳は、深遠を覗くような光を宿している。
「音が消えた後の余韻……それを私たちは『TURIYA(トゥリーヤ)』と呼びます。目覚め、夢、眠り……そのすべてを静かに見つめている第四の意識。そこは、あなたが視た『源の光の泉』そのものです。TURIYAに至る道は、何かを得ることではなく、自分を覆う余計な音を削ぎ落とし、ただ『在る』というリズムに溶け込むことなのです」
「Kaho。そこに到達したなら、あなたはいつでも記憶を引き出すことができる。常に、あなたの内なる声が、航海を導いてくれるでしょう」
深い叡智を湛えた瞳が、やさしく佳帆に向けられていた。
休憩時間 13:19
皆でマスターを囲んでのランチミーティングの時間が取られた。
佳帆は、ジョーティーが纏う真っ白な長服に視線を落とした。ゴブラン織りで立体的に浮かび上がるその文様は、部屋に差し込む光の加減で、まるで水面のように青白く鈍い反射を返していた。
「マスター、それは『青海波(せいがいは)』ですか? 日本では、寄せては返す波に永遠性を見て、縁起柄として親しまれているんです」
ジョーティーは、深海を思わせる瞳を和ませ、静かに微笑んだ。
「おお、それは美しいですね。波は『Urmi(ウールミ)』。無限に広がる、平安の祈り。すべてを統合する神の意識です。ですが、私の故郷……はるか西の地では、これはフィッシュスケール、『マツヤの鱗』を意味します」
「あ、鱗柄なんですね? とても綺麗な地紋なので、それと気付きませんでした。魚をシンボルにした柄は、初期キリスト教によくみられる柄ですが……」
「ふふ…お褒めいただき、ありがとう。これはキリスト教ではありません。もっと古い、太古の民が伝えた宇宙の理のシンボルです」
「宇宙の理……」
「そうです。これは、神エンキに仕えた神聖な存在、『半人半魚アプカル』の象徴です。別名『プラードゥ魚』とも呼ばれ、世界を覆いつくした大洪水以前に文明を伝えた存在として、メソポタミア神話で信仰されていたものです」
「アプカル……! シュメールの……」
「おや、よくご存知ですね。さすが染織史の研究家だ」
ジョーティーは深く微笑み、言葉を継いだ。
「私の母方は、イラン出身で、シュメールの末裔として、その口伝を受け継いでいるのです」
佳帆は、その圧倒的な歴史の符合に息を呑んだ。

「大洪水から人類の種を救い出した、魚の化身の記憶。……Kaho、あなたは深い水の底から、この鱗の盾に護られて、何か大切なものを掬い上げてきたようですね。あなたの見たものを、教えてくれますか?」
佳帆は、まだ瞑想状態の余韻が残る琥珀色の瞳を瞬かせながら、ゆっくりと口を開いた。
「……眩しく漂う、光の川がありました。金色の粒が螺旋を描いていて……大河となったその光は、中心で渦を描く泉に注いでいました。私は、そのほとりでたった一人……布を浸して、人々のエーテル体を護るための『色』を染めていました」
その言葉に、ジョーティーは静かに頷いた。
「それは、宇宙の叡智が集まる『源の光の泉』ですね。……あなたはそこで、情報が光となって四散しないよう、布という『物質』に定着させるアーキビスト(記録者)の役割を担っていたのでしょう。……では、その泉のほとりには、他に誰かいましたか?」
「え……?」
佳帆はハッとした。
個であり全であるその絶対的な静寂の空間に、ふわりと誰かが舞い降りてきた気配。ペルシャかカザフスタン人のような外見の、スモーキークォーツの瞳を持った、ロングフードの背の高い男性。私の染め上げた布を見て「綺麗だね」と感嘆し、「一緒に、星を眺めに行こう」と手を取られた…。テレポートで連れて行かれたのは、星が生まれる場所! 赤、黄色、青、そして紫の、圧倒的な光の渦…。言葉が出ない程に感動する私を見て、「俺の、お気に入りの場所なんだ」とやわらかく微笑みを返す…あの人は…?
「……いました。私に、世界の美しい景色を見せてくれる、水先案内人が……」
佳帆は、自らの原風景を視た想いだった。
「私が、こうして衣装デザイナーをしているのも、人の心と体を、あの源の泉で光を浸して魂を護っていた時のように、宇宙の叡智を写したかったからなのかも……」
「すばらしい気付きです。Kaho、この世に偶然はありません。すべて、必然なのです。私たちは、生まれる前に魂のブループリントを焼き付けてくる…。人生の航路を決める、青写真です。何をしにこの世に来たか、誰と出会い何を学ぶか、魂は設計図を決めて生まれてきます」
「ブループリント……」
ジョーティーの言葉が、佳帆の胸に深海のように染み渡った。
なぜ生きるのか、何のために生きるのか。佳帆は、今まで哲学や文学、歴史、心理学など、答えを外に求めてきた。しかし、内なる神と繋がり、ガイドのサポートを感じながら進む方法として、古来からヨガでは瞑想を取り入れる。 瞑想は、不確かなものや占い迷信の類を闇雲に盲信するのと違い、自己に軸を通してインスピレーションを現実に形として表していくこと。内なる声に導かれた航跡は、『真我』という地に足がついた順潮となるのだ。
午後の講座 14:00
「それでは、何かご質問があれば、マスターにお聞きしてみましょう。はい、ではそこの、青いヨガウエアをお召しの方」
司会者が、受講者に挙手を促す。
「マスター、『不食』とは、どのような感覚なのですか? まるで、仙人や天女のようです」
ランチミーティングでも、ジョーティーは飲み物しか口にしなかった。
「天女は地上の物を口にしないでどう生きるのか」
という問いの答えを求めて参加していた佳帆は、耳をそばだてた。
「あなたが不思議に思った『不食』……プラーナで生きるということは、胃袋を空にすることではなく、細胞を『光の受信機』に書き換えることなのです」
ジョーティーは、一口もつけなかった皿の上の美しいサラダを、慈しむように見つめた。
「きっかけは、あの金星のトランジットでした。金星が太陽の真ん中を横切るあの一瞬、地球には、普段は遮断されている『源の太陽(セントラルサン)』からの高周波がダイレクトに降り注ぎます。私はその光を、この瞳を通じて直接、脳の奥の『海』に受け取りました。医学的には、『松果体』と呼ばれる場所です。この器官は、水晶体のレンズを通して網膜のフィルムに『宇宙の真理』を焼き付ける、カメラのような構造をしています」
佳帆は、彼の碧い瞳が微かに発光したように感じて、息を呑んだ。
「その日から、私の体は『燃焼』ではなく『共鳴』で駆動し始めました。食べ物を分解してエネルギーを得るという、破壊を伴うプロセスを卒業したのです。プラーナ、つまり宇宙に満ちる『Ṛta(真理)』という音のリズムそのものを、皮膚から、呼吸から、直接消化して生きる。天女たちが地上の物を食べなかったのは、彼女たちの体がすでに『究極の空の世界』に最適化されていたからかもしれませんね」
ジョーティーは悪戯っぽく微笑み、指先で空気を掬った。
「金星は、物質を光へ、光を記憶へと変換する、宇宙の錬金術師です。私が食べないのは、飢えているからではありません。宇宙という名の、完璧なハーモニクスを響かせる『交響曲(シンフォニー)』を、一秒も欠かさず全身で味わい続けているからなのです」
Ṛta……。
佳帆は、ジョーティーの言葉の余韻に浸っていた。
「マスター、ありがとうございます。それでは、午後の誘導瞑想をお願いします」
「はい。では皆さん、先ほどと同じように、身体の力を抜いていきましょう。午後は、『陰』へのフォーカスです。万物は『陰』から生まれる――。ですが、今日は冬至。この『陰』が極まる日は、『陽』へと転換する天の暦の『至点』です。ですから通常と違うサイクルで、意識に陰陽の逆スピンをかけましょう」
4秒間、息を吐く。吐いて、吐いて、吐き切って……
ゆっくりと、新しい空気を吸い込んでいく。
あなたは、最も深い記憶の底へ導かれていきます……1,2,3,4……
先ほどのような美しい原風景の続きが視られると期待していた佳帆は、脳裏に広がった光景に愕然とした。
それは、肌を刺すほど凍てついた、暗く深い、海の底だった。
累々と積み重なる仲間達の冷たい躯を、つい先ほどまで笑い合っていた友人を、歯を食いしばって悼み、一つひとつ繭に包んでいく……。
深海に挿し込む、一条の光を見上げて、私は意識を手放した…。

な…に…、今のビジョン……!
眼を開けて、の合図がかからないうちに、冷や汗をかいて飛び起きた佳帆に、ジョーティーは心を落ち着かせるように穏やかな声をかけた。
「Kaho、息を整えて。それは、あなたの『長期情動記憶』。呑まれてはいけません。鳥になって、過去のあなたの『状況』だけを、ただ俯瞰するのです。何が起こったか、場所はどこか、いつの時代か…『情報』のみを拾い集めて、意識を『感情』と切り離してください。今のあなたは、安全で、護られています。何があったか、話せますか?」
ふぅっ、と一つ大きな深呼吸をして、佳帆は話しはじめた。
「黒い…波が。私たちの住む場所を襲いました。古い、遥かなる遠い時代です…。私は、『任務』があったので、彼らの遺体を繭に包んで、次なる転生への緒(いとぐち)をつけていた…」
宇宙の基底音である「AUM」の振動の中で見たものは、命の光が生まれる「源の泉」のヴィジョンと、「星の生まれる場所を一緒に眺めた人」の姿。そして、「洪水に沈む人々のエーテル体を護る繭をつくり、魂の緒をつける弔いのシーン」だった。
「初着(うぶぎ、産着)から帷子(かたびら、死装束)まで、作れと言うの…?」
自分が選んだ職業の業の深さに、佳帆は恐れを懐いた。
「Kaho、あなたが他者のために色を染め、世界を護ろうとするその心……日本でいう『利他(りた)』の精神は、実は宇宙の最も古い法の名なのです」
ジョーティーは、瞑想するように静かに目を閉じた。
「サンスクリット語で、宇宙の不変の秩序を『Ṛta(リタ)』と呼びます。星が巡り、河が流れ、命が巡る……その均衡のリズム。英語の『Rhythm(リズム)』も、聖なる儀式『Rite(儀式)』も、すべては『ぴったりと調和させる』という印欧語根から生まれました」
「リタ……。日本語の『律(りつ)』や、他を利する『利他』と響きが同じですね」
佳帆の言葉に、ジョーティーは深く頷いた。
「そうです。9000年前、人類は知っていたのです。『真理(Ṛta)』に従うことと、『他者を活かす(利他)』ことは、同じ一つの働きであることを。宇宙の法に自らを正しく調律すれば、その存在は自然と他者へのギフトになる。 あなたが過去世の記憶を『布』を通して現像することは、失われた宇宙のリズムを、この世界に再び『律(リタ)』として定着させる作業なのです」
「Kaho…。あなたはいつか、人々を癒す本を書くでしょう」
シュメールの末裔であるマスターの深い紺色の瞳が、真っ直ぐに佳帆を射抜いていた。
「それは、洪水に引き裂かれた世界を、再び織り成す寿ぎの波。……恐れずに進みなさい」
静寂に包まれていたヨガクラスの空間は、やがて沸き立つような温かい拍手で幕を閉じた。その拍手の波の中で、佳帆は胸の奥に灯った小さな、けれど決して消えることのない「使命の火」を感じていた。

2021 年 1 月 20 日 京都市左京区岡崎
『 石の呼び声 』…?
「羽衣」の衣装制作のため、イメージ参考図書を探しに訪れた大型書店の美術書コーナーで、佳帆は不思議なタイトルに惹かれ、漆黒の背表紙に手をかけた。
わ…!
硬質なタイトルの不意を打つ、美しい稜線を描く金のカーヴ。引き絞った上弦の弓のような繊細な光が、インクを深く吸い込んだ極上の手触りの紙に溶け込んでいた。その特徴的な線に、なぜか懐かしい気持ちを覚え、佳帆はしばし眺めた後、ページをめくり始めた。
えっ…!す、すごい…!
後光のような光彩で、ストーン・ヘンジを照らす夏至の夜明け。
霧の彼方に駆ける馬を背景に、ブルーストーンを捉えた、プレセリ・ヒルズの紫の空。
弦のように影を伸ばす巨石群を、上空から撮影したショット。
ただの鉱石の静物写真ではない。躍動感溢れる俯瞰の構図と、沈黙する石の微かな音を聴くような、寄りのコントラスト。とろけるような背景に煌めく、極上の玉ボケ。
この人は、羽根でも生えてるの…? 光を、現像してるみたい。私の本を撮れる人は、彼しかいない!誰なの?
はやる気持ちで奥付をめくる。そこには―。
星野 櫂
イギリス在住。古城の修復を本職としながら各地を巡り、趣味で撮影していた写真が注目を集める。
本著が処女作。
発行日 2018 年 12 月 22 日
と書かれていた。
イギリス在住…!
諦めきれない佳帆は、すぐに携帯で著者名を検索した。ヒットしない。SNS もやっていないようだ。
HP もないの? 処女作…もう、この版元に直接連絡先を尋ねるしかない…? 焦りながらスクロールを続けた 3 ページ目の遷移で、佳帆はようやく「 KAI HOSHINO 」と書かれた WEB サイトを見つけた。
震える指でリンクをタップする。画面に現れたのは、プロフィール写真でも、連絡先でもなかった。
朽ち果て、木々が生い茂るブレナヴォン製鉄跡。その漆喰の壁を塗る、無骨で泥だらけの職人達の手と、使い込まれた鏝の静謐なモノクロ写真群。名もなき職人たちが泥にまみれて歴史を繋いでいくその「手」に、神性が宿っていた。
「……何なん、この人」
カメラマンのサイトのトップページが、なぜ美しい風景写真ではなく職人の仕事現場なのか。その理解不能なアンバランスさに、佳帆の心臓は、さらに高いテンポで跳ね上がった。

本を落とさないよう大切に抱きしめて、急ぎ足でオフィスに戻る。
階段を駆け上がり、建付けの悪い扉をもどかしく開けて、PC 机へスライディング。積んであった本が音を立てて落ちたが、気にしない。
Contact ページを開いて、佳帆は猛烈な勢いでキーボードをタップしはじめた。
2021 年 1 月 20 日 15 時
件名:星舟舎 藤川佳帆|撮影依頼について
星野櫂さま
はじめまして。突然のご連絡、失礼いたします。
私、京都にてひとり出版社「星舟舎」を立ち上げ、舞台衣装の服飾デザイナーをしております、藤川佳帆と申します。
只今、貴殿の処女作『石の呼び声』を拝見いたしました。あまりの静謐な美と、光をそのまま現像したかのような圧倒的な描写に感銘を受け、居ても立っても居られずご連絡いたしました。
実は現在、私が衣装デザインを手がけるピアノ・デュオの新曲「羽衣」の制作過程をアーカイブし、「色のルーツ」を辿る書籍をつくる構想がございます。
星野様の作品を拝見した瞬間、「布の光を撮れる人は星野様しかいない」と直感しました。
職人の手に宿る美や、沈黙する石の声を写し取る星野様のレンズを通して、私たちの文化の奥底に眠る記憶を、写真に記録していただけないでしょうか。
イギリスにお住まいでお忙しい折とは存じますが、まずはお話だけでもお聞かせ願えますと幸いです。ご連絡を心よりお待ち申し上げております。
P.S. 特に、表紙の三日月の美しさには感動しました!
星舟舎
藤川佳帆 拝
ウェールズ、カーナーヴォン城近郊 同日早朝 6 時
古城の修復現場へ向かうため、重いブーツの紐を締めていた櫂のスマートフォンが震えた。画面には日本からのメール。
『 Contact:星舟舎 藤川佳帆|撮影依頼について 』
見慣れない名前だ。
「……こんな朝っぱらから、どういう神経だ」
淹れたてのコーヒーを啜りながら、櫂は画面をスクロールする。
『 只今拝見しました。圧倒的な描写に感銘を受け、居ても立っても居られず…… 』
朝霧に包まれた冷気を散らすほどの熱が画面越しに伝わってくるほどの、長文のオファーメール。
「……『色のルーツ』だの『布の光』だの、ポエミーな迷惑メールだな。だが、佳帆とはいい名だ。佳は珪素、ディライフ鉱山のクォーツに通じる。138 億年分の宇宙の記憶を記録できるデバイスだ。風待ちの櫂に、風受けの帆か。星の海に出航とは、なかなか面白いじゃねぇか」
何気なくメールを開いた櫂の視線が、画面の文字を追うごとに、ファインダーのピントを合わせるように鋭さを増していく。
『 沈黙する石の声 』
「……ほう。風景ばかり褒める奴が多いのに、『沈黙する石の声』を見抜いたか」
櫂はフッと口角を上げた。しかし、最後までスクロールして「P.S.」の文字を見た瞬間、彼の眉間に深いシワが寄った。
『 P.S. 特に、表紙の三日月の美しさには感動しました!』
「……三日月じゃねぇっての」
あれは、既に入稿を終えていたゲラを止めてまで刷った、渾身の一枚だ。

あの日…。現像液の酸の匂いが漂う仄赤い暗室で、彼はトングを揺らしていた。
撮り下ろしたばかりのフィルムから、印画紙に黒い影が焼き付き、その中心に一本の細く鋭い「光の弧」が浮かび上がった。
「……これだ」
櫂は思わず息を呑んだ。その極細の輪郭が、霧が立ち込めるスノードニア国立公園の石橋と完璧なシンクロニシティを描いていた。これこそが、彼が数億年の地層から聴き取りたかった「石の声」そのものだった。
「……これを表紙にする。印刷所に連絡して、ゲラを差し替えろ」
「もう印刷所が動いてます!」
と青ざめる編集部を、圧倒的な写真の説得力と妥協を許さないクリエイターとしての覇気でねじ伏せ、土壇場で表紙を差し替えた…。
櫂は鼻で笑うと、スマホの画面を親指で乱暴にスワイプして閉じた。
「石を知らねぇのは仕方ねぇが、星の形も見分けられねぇ社長か。……さ、現場に遅れる」
彼はそのままスマホをポケットに突っ込み、熱烈なオファーを放置して、霧深いウェールズの修復現場へと向かっていった。
数日後の京都、星舟舎 2021 年 1 月 26 日 26 時
こない…。
メールを送ってから数日。佳帆は、「まだかな。届いてないんかな、迷惑メールに入ってもうたんかな」と、1 日に何度も受信トレイを更新していた。
「きたっ!! 星野櫂さんから返信!!!」
ついに鳴った通知音に、佳帆は拝むように手を合わせ、高鳴る胸を押さえながらメールを開いた。
あんなに熱を込めて書いたのだ。きっと、石の声を聴く彼なら、私の構想に深い共鳴をしてくれるはず……!
しかし、画面に表示されたのは、目を疑うほど短いテキストだった。
件名:Re: 撮影の件/星野
藤川佳帆 様
はじめまして。
オファーの件、承知しました。
ちょうど来月初旬から拠点を九州に据えます。
関空の帰りに京都へ寄ることは可能です。
日程が合えば、その際にお話を伺います。
P.S. 表紙の写真は、三日月ではありません。
星野 櫂
「…………」
佳帆は PC の画面を見つめたまま、完全にフリーズした。
「……み、短っっっ!!!!!!」
思わずオフィスに絶叫が響き渡る。
「え!?まさかの、リアクション、ゼロ!?『色のルーツを辿る壮大な構想』も無視!?『関空の帰りに寄ることは可能』っていう業務連絡だけ!?しかも追伸!『三日月ではありません』って、じゃあ何なん!? なんで答え教えてくれへんの! めっちゃいけずやん!!!」
佳帆は頭を抱えて机に突っ伏した。
「……かなんわ〜。この人、写真にはあんなに光と温度があるのに、テキストは完全にシベリアの永久凍土やんか……!」
あれ、でも…。
『オファーの件、承知しました』これは、受けてくれるってこと?
気を取り直して、佳帆はキーボードを叩いた。
件名:Re: Re: 日程調整ありがとうございます|撮影の件/星野
星野櫂さま
お忙しい中、京都までお運びいただけるとのこと、ありがとう存じます。
2 月 3 日立春、私は東寺で箏の奉納舞台に出演する予定がございます。
ちょうど演目が琵琶湖をテーマにした二曲です。
出版予定の『布の記憶』に因む曲ですので、ご高覧願えますでしょうか。
撮影のイメージになりましたら幸いです。
出番は 15 時から、場所は金堂前です。
私は当日、青藤色の着物を着用予定です。目印にしてくださいませ。
それでは、当日会場にてお待ち申し上げております。
星舟舎
藤川佳帆 拝
ウェールズ北部、コンウィ 2021 年 1 月 25 日 17 時
無造作にポケットに突っ込んでいたスマホのバイブレーションが響いた。
『件名:Re: Re: Re: 日程調整ありがとうございます|撮影の件/星野』
日本との時差は 9 時間。秒速で返信が届いたことに、「徹夜でもしてんのか?」と驚いて、櫂は新着メールをクリックした。
…東寺、ね。
世界遺産、教王護国寺。弘法大師・空海が嵯峨天皇から託され、796 年に創建された真言宗の総本山だ。
京都駅から近いし、散策でもするか。
携帯のカレンダーに予定を入力して、櫂は新幹線の予約画面を開いた。

2021 年 2 月 3 日 15 時 京都、東寺
124 年振りの朔旦立春。
『万葉集』の掉尾を飾る大伴家持の一首、「新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事」で詠まれたように、立春と旧正月が重なる奇跡の暦だ。
冷たく澄んだ立春の空気が、真言密教の総本山を包み込んでいる。
金堂前に設けられた特設の奉納舞台。そこには、青藤色の着物を凛と着こなした佳帆の姿があった。
「〽 眞帆あげ 歸る 矢ばせがた……」
近江の名所を歌詞に詠い込んだ箏曲、『 近江八景 』。佳帆の透明な唄声と鋭い爪音が、五重塔の木造構造に反響し、1200 年前の空気を震わせるように響き渡る。
人垣の最後尾。漆黒のジャケットを着込み、無骨な機材バッグを肩から下げた櫂は、その一節に、つ、と視力 2.0 を誇る目を細めた。
……風受けの「帆」、か。ライラックの帆に合わせた蓮の帯。泥の中から出てきたにしちゃ、随分と粋な色を着るじゃねぇか。
櫂は肩から剥き身で下げていた、スナップ用の SIGMA 50mm F1.4 DG HSM | Art 単焦点レンズを降ろし、バッグから LUMIX S1R のボディを取り出した。LUMIXのセンサーは、「生命の色彩」と謳われるほど、色再現性が極めて正確で美しい。布の撮影は、モアレや偽色が命取りだ。これならば、愛用の SIGMA レンズの黄転びを防ぎ、S1R の 1 億 8700 万画素のハイレゾモードが繊細な糸の重なりをシャープに捉え、ISO 100 のベース感度に設定することで、布の質感を粘り強く描写してくれる。
そして…「ボケマスター」こと、SIGMA 105mm F1.4 DG HSM | Art。重量約 1.6kg 超という規格外の重さと大きさで、もはやこれを持ち歩くこと自体が一種の修行として、SIGMA ファンの間で「変態鈍器」の愛称で親しまれている巨大なレンズを、櫂は迷いなく装着した。
「重くても、大きくても、最高に美しい絵が撮れればそれでいい」という、SIGMA の極端なモノづくり姿勢。サジタルコマフレアを極限まで抑え、アウトフォーカス(ボケ)の美しさだけに全てを捧げた設計思想で、会津の職人が磨き上げた逸品だ。
被写体からは半順光でその距離 10m。この圧倒的な立体感と、「空間を切り取る」ような描写が得られる、エキサイティングなセットアップならば、最高の絵が描けるはずだ。
「ボケマスター」は、ピント面が剃刀のように薄い。櫂は西日を考慮して、カーボンファイバー製フードを取り付け、ND16 フィルターを挿し込んだ。総重量 3 ㎏の装備でレンズ側の三脚座を固定し、ピンポイント AF で、まつ毛一本一本の分離が見えるほどフォーカスし、シャッターチャンスを待つ。
佳帆は、二曲目の一中節・箏歌掛合『 竹生島 』の唄方として、舞台西の端に移動していた。
空間を切り裂くような、冴えわたる撥の音。厳かな曲調に、会場の空気が一瞬で張り詰める。
延喜帝(醍醐天皇)の臣下が、竹生島の辨才天の社に詣でようと、琵琶湖にやって来る。湖畔で出会った老いた漁師と若い女の釣り舟に便乗し、湖に浮かぶ竹生島を目指す。臣下が漁師に「竹生島は女人禁制ではないのか」と問いかけると、老人は「竹生島は女体の辨才天を祀り、女性をお隔てにならない」と返し、島の由来を語り聞かせる。
やがて釣り舟の女は、自分は人間ではないと明かして社の御殿に入り、漁師は湖の主であると告げ、波間へ消えた。御殿が鳴動し、光輝く辨才天が現れる。壮麗な天女の姿の辨才天が夜の舞楽を奏するうち、月が湖上に澄み輝く頃を迎え、湖中より龍神が現れる。龍神は金銀珠玉を臣下に捧げ、祝福の姿を表する。
天女は、ある時は天女となって衆生の願いをかなえ、ある時は下界の龍神となって国土を鎮めるのだ、と「衆生済度」の誓いを現して社殿に入る。
龍神もまた、湖水の波を蹴立て、龍宮の中へと飛び入った―。
「〽 その時虚空に 音楽聞こえ、その時虚空に 音楽聞こえ、花降り下る 春の夜の」
クライマックス・シーンを語る唄方の唱和が、冬の冷たい空気を震わせる。
ピント面数ミリという極限の被写界深度の中で、櫂は息を殺し、「ボケマスター」越しに被写体の瞳を凝視していた。
……ブルー・アンバー。深海に沈んだ琥珀の色だ。
櫂は内心でそう鑑定しながら、微かにシャッターボタンに指をかけていた。佳帆の瞳は、琥珀に一滴の青い絵の具を溶かしたような、不思議な色を宿している。
その時だった。合唱から独唱へ入る直前、佳帆が扇子を取ろうと、ふと身を屈めた。
途端に、彼女の背後にある金堂の南面、そして左右にそびえる楠の巨木の隙間から、強烈な西日が半順光の角度で彼女の顔面を射抜いた。
光が、来る―!
プロの動体視力が、光の軌道をコンマ数秒早く予測する。伏せられていた佳帆の顔が上がり、楠の葉擦れを抜けた西日が、彼女の瞳の奥へ一直線に飛び込んだ。
「〽 月に輝く 乙女の袂 返すがへすも 面白や」
高らかに謳い上げられる辨才天の神徳が、広大無辺な虚空に響き渡った。
その瞬間。
「……ッ!!」
琥珀色だったはずの瞳の奥で、強烈な化学反応が起きた。一滴の青を溶かし込んだ虹彩が、息継ぎなしのロング・ブレスで紅潮し、一瞬にして「クンツァイト・バイオレット」の神聖な紫へとスパークする。
カシャッ——!!
LUMIX のメカニカルシャッターが、1/1000 秒の速度でその「紫の光」を切り取った。
しかし、櫂の時間はそこで完全に停止していた。
「なんだ……今の、光は……!?」
それは単なる光の反射ではなかった。まるで、中心から放射状に針のような鋭い光の結晶が弾け飛ぶ、「スターバースト・ルチル・クォーツ」だ。宇宙が誕生する瞬間の、圧倒的な閃光を基に、名付けられた石。
会津の職人魂が宿る SIGMA のレンズが、佳帆の瞳を極限の解像度で捉えた瞬間、星が爆発するような紫に感光したのを、櫂は見逃さなかった。
彼女が唄う辨才天の舞楽の響きに、櫂の胸の奥で、数億年忘れられていたような微細な振動が起きる。
「ただの歴史オタクの社長かと思えば、妙な『 石の声 』を響かせるな…」
櫂はシャッターを切るのを忘れ、ただそのレンズ越しに紫の残像を放つ被写体の姿を凝視していた。

奉納演奏が終わり、拍手が鳴り止んだ後。師に挨拶を済ませ、愛器「天の川」を箏屋に託す指示をしていた佳帆は、ふと、強烈な視線を感じて振り返った。
そこには、周囲の観光客とは明らかに異質な、研ぎ澄まされた刃物のような気配を纏う長身の男が立っていた。
彼の身を包むのは、使い込まれた漆黒の「バブアー(Barbour)」のオイルドジャケット。インナーには、汗冷えを防ぎ機能性を極めた「アンブロ(umbro)」のスポーツウェアが覗き、肩には過酷なフィールドワークに耐えうる「カリマー(karrimor)」の重厚な機材バッグが下げられている。イギリスの気候と登山の過酷さを知り尽くし、機能性だけを追求した出で立ち。しかし、深い彫りと現場で鍛えられた強靭な骨格が、その泥臭いアウトドア装備を極上のシネマティックな衣装へと昇華させていた。
そして、手には、ライフルのごとく無骨なカメラ。真っ直ぐにこちらを見据える、マッハニレス(Machynlleth)の凍てつくような霧を宿した、煙水晶の瞳。
バチッ——。目が合った瞬間、佳帆の指先に、箏の弦を弾いた時よりも鋭い静電気が走った。
「……藤川佳帆、さんですか」
低く、少しぶっきらぼうな声。
佳帆はハッと息を呑み、着物の裾を静かに捌いて歩み寄った。
「はい。……もしかして、星野櫂さま、ですか?」
「ああ。関空の帰りに寄った」
う、うわぁ、ほんまに愛想ない!メールの永久凍土そのまんまやん!佳帆は内心盛大にツッコミを入れつつも、出版社の社長として精一杯の営業スマイルを作った。
「わざわざ京都までお運びいただき、ありがとうございます。あの、メールでもお伝えしましたが、私の『布のルーツを辿る』構想——」
「櫂でいい。敬語も不要」
佳帆の言葉を遮り、櫂はスッと一歩距離を詰めた。見下ろすような形になり、彼の纏う冷たい風の匂いが佳帆を包む。
「あんた、カラコンでもしてんのか?」
「あ、はい……?裸眼ですが…?」
佳帆が少し身構えながら尋ねると、櫂は無遠慮に距離を詰め、佳帆の顔を覗き込むように凝視した。
「その目、どういう構造してんだ」
「え?」
「俺が最初に挨拶した時、西日が射し込んだあんたの瞳は、黄金色に輝く『インペリアル・トパーズ』だった。だが、日陰に入った今は、底の知れねぇ『ブルー・アンバー』に戻ってる」
無骨で長い手が、佳帆の頬のすぐ横、空気の壁を塞ぐように伸ばされる。
「光の屈折率が変わるのはわかる。だが、俺のレンズは誤魔化せねぇぞ」
櫂の低い声が、東寺の静寂に妙な熱を帯びて響く。
「さっき、あんたが舞台で辨才天のダンスを歌った、西日を受けたあの瞬間……。『ブルー・アンバー』の瞳の奥で、『クンツァイト・バイオレット』の紫の光が弾けた」
「むら、さき……?」
「ああ。ただの色じゃねぇ。まるで瞳の奥で星が超新星爆発したみたいな、鋭い放射状の光。……『スターバースト・ルチル・クォーツ』。星のように結晶が伸びる、石の花の名だ」
櫂は、逃げ場を失って見上げる佳帆の瞳に、自分自身の影がくっきりと映り込んでいるのを確認して、不敵に口角を上げた。
「普段は青い琥珀。光が射せば黄金。なのに、熱を帯びた瞬間だけ、紫の星に瞬く……鉱物学の常識を完全に無視してるな」

彼は低く唸るように、言葉を畳み掛けた。
「で?社長。俺のレンズで、何を現像させようって?」
鼻でふっと笑う櫂の言葉に、佳帆の営業スマイルがピキリと固まった。
……な、なんやねんこの男!初対面の挨拶もそこそこに、いきなり岩石フェチ炸裂させてきはったで!?しかもなんか、常に上から目線やし!
「……ほな、星野さ、…櫂、さん。石の解説しはりに東寺までお越し頂いたんと違いますやろし、歩きながら、お話ししましょか」 凛とした佳帆の切り返しに、櫂は一瞬愉快そうに眼を細めた。
佳帆が素の京ことばへ密かに忍ばせた皮肉に悪びれもせず、SIGMAレンズを軽く叩く。
「あぁ、そうだな。星の航路を聞いておかなきゃな」
不敵に笑う櫂の顔を見て、佳帆の胸の奥底で、かつてないほどの激しい心拍の渦が回り始める。
星の海へ漕ぎ出す二人の舟は、124年ぶりの立春の空の下、火花を散らしながら静かにその錨を上げたのだった。
2021 年 2 月 3 日 16 時 東寺境内
西日が長く影を落とす中、佳帆と櫂は広い境内を進み、宝物館へ向かっていた。
「……櫂さん。お大師様が辿った天の航路て、知ったはりますか?」
佳帆は階段を上がりながら、冷たい冬の空気に白く息を吐いた。櫂は、機材バッグを受付に預け、煙るような眼を向けた。
「今日は、『星供(ほしく)』の日。除災招福を願う密教の重要な修法が行われるの。この日だけ、『星曼荼羅』、通称北斗曼荼羅が掲げられる…」
「北斗…」
「そう。真言宗の総本山であるこの東寺に、なぜ『星の信仰』があるのか…不思議やと思いません?」
佳帆が振り返り、妙見菩薩像の前で歩みを止める。
「北辰信仰……北極星や北斗七星を神格化した『妙見菩薩』が祀られてる…。本来、『法』、つまり真理を拠り所として偶像崇拝を禁じた原始仏教に、星を拝む思想はないはずやのに」
「……空海が唐から持ち帰った『宿曜経(しゅくようきょう)』だろ」
櫂がポケットに手を突っ込んだまま、低い声で即答した。
「インドのサンスクリット占星術、『ジョーティシュ』がベースになって、中国の道教の『北辰信仰』と混ざり合って独自の進化を遂げたやつだ。……違うか?」
「っ!」
佳帆は思わず目を見開いた。ただの岩石フェチのカメラマンだと思っていた男の口から、まさか『ジョーティシュ』や『道教』という単語がこれほどスムーズに出てくるとは思わなかったのだ。
「……よう知ったはりますね。その通り。でも、当時の占星術は、今みたいな個人の吉凶占いやなかった」
佳帆の胸の奥で、歴史オタクのスイッチがカチリと音を立てて入った。彼女のブルー・アンバーの瞳は知的興奮の熱で、落日の光を受けて再び「インペリアル・トパーズ」の煌めきを放ち始める。
「月が、どの星に宿るか。天を等分して暦としての秩序を重んじた道教の『28 宿』に比べて、インド占星術の『27 宿』は精度を重視し、星が伝える意図を読んで災厄を避ける意味合いが強かった。『宿』とは、天球上の黄道を 27 等分して、13.333 度で割った整数部分。月が白道、つまり月の軌道上を約 27.32 日の恒星月で一周する間に、通過する星座『宿』を指すの。昴宿、スバルを起点として、この計算式で算出されたインデックスに対応する『宿』が、月が泊まる天の一夜の宿となる。やから、毎日朝のニュースで流れる星座占いみたいに、獅子座や水瓶座でひと月留まる訳やなく、毎日変化するの」
空間に孤を描きながら、佳帆は月を指した。
「惑星や恒星の運行を計算するには、天球座標系と球面三角法の理解が不可欠。地球の自転軸のふらつきによる、72 年で 1 度の星座の位置のズレすら見逃さず、経過年数による補正までされていた。当時最先端の高度な数学にして天文学。暦を観ることは、軍事機密にも匹敵してた …。お大師様はこれを、国家や集団がいつ動けば宇宙の調律と一致するか、そして天災を回避できるかという、『軍事・政治の最適化アルゴリズム』のシステムとして使ってたの」
彼女のその「オタク全開の宇宙語」を、櫂は自身が最も得意とする鉱物学と光学用語で、容赦なく翻訳にかかった。
「……アルゴリズムね。要するに、道教は『カレンダー』、インド占星術は『防災マップ』。
空海のやってた宿曜ってのは、『宇宙の気象予報』だろ」
「気象予報……?」
「そうだ。ここに、空海が生まれたのは 774 年と載ってるな」
空海の一代記を前に、櫂は続けた。
「世界的に記録されてる、強大な太陽フレアによる宇宙線飛来、『ミヤケ・イベント』が起こった年だ。イギリスの『アングロサクソン年代記』には、こう書かれてる。『空に赤い十字架と見事な大蛇が現れた』ってな」
「……!何で、知って…?」
「イギリスで、古城を案内するガイドをやらされてたもんでな。『石の呼び声』の写真を撮ってた頃だ。今でも覚えてる。2017 年 9 月、イギリスでオーロラが見えた…」
「そう…。あ!もしかして、プレセリ・ヒルズの紫の空は…!」
「おぉ、よく見てるじゃねぇか。そうだ、あの時、あまりに明るくて、ISO 感度 1600 で撮れたくらいだ」
「ミヤケ・イベントを発見された、名古屋大学の三宅芙沙氏が、こう言ってる。屋久島の樹木年輪中の放射性炭素濃度の急増の痕跡は、通常の 20 倍だったって。1859 年のキャリントンイベントの数十倍の規模で、約 1000 年周期で発生している可能性があるって」
「1000 年周期か。だがな…。本でお勉強なんてしなくても、星の写真撮ってりゃ嫌でもわかる。太陽が荒れてる時は、地球の磁場も狂って嵐になるんだよ。空海だって、『目の前の星と風』を誰よりも正確に観察してただけだろ。ピンホールカメラみたいにな」
櫂は、毎日レンズ越しに星や光を追ううちに、太陽活動と地球の気象がリンクしていることを体感として知っていた。
「宇宙は時計のように規則正しく回ってるんじゃねぇ。常に叫び、暴れながら楽器を鳴らしてる。ブリティッシュ・ロックみたいに。……空海は、そのヘビーなサウンドのノイズを読んで、星を『調律』しようとしたんだろ」
佳帆は完全に足を止め、圧倒されたように彼を見上げた。
この人……私が何年も文献を漁ってようやく辿り着いた真理を、写真の現場で得た肌感覚で、一瞬で本質まで現像してしもた……。
すると、櫂が身を屈め、逃げ場のない距離まで再び顔を近づけてきた。ファインダーを覗くような凄みのある視線が、佳帆の呼吸を奪う。
「……また光った。歴史の謎解きに熱中するたびに、お前の瞳の奥の『珪素』が、黄金色に発熱するのか…?アゲートなのか、アメシストなのか…。一体、どういう仕組みだ」
「っ……」
「124 年振りの星の供養日か。そんな日に、地球のコアの塊みたいな石に出会うなんてな。… これも、空海の計算のうちかよ」
彼の、低く耳に響く声。佳帆の心臓が、歴史のロマン以上に高鳴り、ドクンと音を立てる。
なんなん、この男……っ。私のこと、さっきから石みたいに…!
「イギリスじゃ、空海は『東洋のダ・ヴィンチ』って呼ばれてる。そのオーパーツみたいな物理学と天文の知識でな。……社長。『マクベス』にこんな一説がある」
突然のシェイクスピアの登場に、佳帆はハッと息を飲んだ。
「もしお前たちが時の種子(The seeds of time)の奥を覗き見て、どの粒が芽を出し、どの粒が枯れるかを言い当てられるのなら、この俺にも言ってみろ。俺はお前たちの恵みを乞いもせず、 憎しみを恐れもしないのだから―」
櫂が、有名な台詞を俳優のようにすらすらと諳んじる。そして、獲物を狙うような眼を向けた。
「『時の種子』とは、過去に蒔かれ、未来へどう育つかわからない『運命』や『記憶』のことだ。空海が 1200 年前に蒔いた種が、どう発芽するのか―。俺のレンズで、一つ残らず見届けて現像してやるよ」
金縛りにあったように張り詰められた糸を、閉館の合図がふっつりと解いた。
「さ、駐車場どっちだ。あんたの車に乗せてもらう約束だろ」
くるりと背を向けて、スタスタと出口に向かう櫂に、一人壁際に取り残された佳帆は、展示ガラスに映る自分の顔が火のように熱くなっていることに気づき、その場にへたり込みそうになるのを必死に堪えていた。
……あかん。私、とんでもない男を呼び寄せてしもたかも知れん…!

「なぁ、あんたの背にあるマーク。それも星か?」 駐車場への道中、思いついてはスナップを撮りながら歩いていた櫂は、ふと残照を受けて光る佳帆の着物の縫い紋に目を留めた。
「え?あぁ、これ。藤川の家紋。七曜紋」
「Family crest か?」
「英訳すると、そうね。家族を識別する紋章。イギリスみたいに盾ではなく、武士が旗に染め抜いて戦場で携帯したの。櫂さんの家紋は?」
「家紋…。墓にデザインされてるやつか?確か、三つ鱗だってオフクロは言ってたな」
「え⁉ 三つ鱗?北条家の家紋やん!それって…」
思わず素の京ことばで言いかけて、佳帆は気まずそうに口をつぐんだ。
墓…。さらりと紡がれた過去形に、薄々櫂の身の上を察した佳帆は、それ以上踏み込むのを躊躇った。
並んで歩き始めると、日本人とイギリス人のハーフである櫂の、現場で磨かれた長身の骨格が嫌でも目に入った。少し長めのシックなアッシュカラーの髪に、無精ひげ。着古したオイルドジャケットから漂う、冷たい風とビターコーヒーの薫り。すれ違う観光客たちが、まるでモーゼの海割りのようにハッとして道をあけていく中、歴史オタクの佳帆の脳裏に、ふと昔読んだ本の記憶が蘇った。
――イギリスのヴィクトリア女王。彼女は愛する夫アルバート公を亡くした後、生涯にわたって黒衣の喪服を着続けた。黒いドレスに合わせるため、ジェット(樹木の化石)や黒水晶(モリオン)、そして煙水晶(スモーキークォーツ)といった暗い色の宝石が、「モーニング・ジュエリー(哀悼の宝石)」として、当時イギリス中で大流行したのだ。
佳帆は、横を歩く櫂の横顔を盗み見た。一切の装飾を排した、オールブラックの機能性重視のウエア。そして、霧を閉じ込めたような、深く暗い煙水晶の瞳。
……まるで、永遠に喪に服しているみたいや……。
佳帆の胸の奥が、唐突にチクリと痛んだ。なぜ彼は、これほどまでに暗く、重い色ばかりを身に纏っているのか。それはまるで、ずっと昔に光を喪ってしまったことへの、終わりのない哀悼を捧げているかのようだった。
それに…。なんか、この人といると、距離感バグる…。
普段は衣装デザイナー、そして出版社の社長として気を張っている佳帆は、これほど砕けた物言いに慣れていないのだ。
櫂は、そんな佳帆の内心の葛藤を正確に見抜いていた。佳帆が呑み込んだ言葉の真意も。
オタクの癖に、何でもかんでも土足で突っ込み踏み越えてくる、特攻隊じゃねぇんだな。
「…そんな名門じゃねぇよ。育ちは新潟だが、生まれは江の島なもんでね」
ふっと、力を抜いたような声でやわらかく落とされた言葉に、佳帆は顔を上げた。
その目はまた、トパーズのように輝いている。
「江の島!日本三大弁財天の?私、前から行ってみたかったの!」
「そういや、最初のロケ地の予定は竹生島だって言ってたな」
「そう!クライアントの新曲『羽衣』の伝説が生まれた場所。正確には琵琶湖の隣にある余呉湖が舞台やけど、古来から琵琶湖は神域としても、水運を担う軍事の最重要拠点としても重要視されてた。それに、今私が着てる着物も『浜ちりめん』って言って、長浜でつくられてるの。お箏の弦もね、今日は屋外で切れたら困るからテトロンをつけたけど、本当は最高峰の舞台では、『絹糸(きぬげん)』って言って、同じく長浜で拠られた糸を張るの」
「へぇ。そういや、バイオリンの弓は馬の毛だって聞くし、三味線は猫の皮だろ。撥(ばち)も象牙だ。…つまり、楽器ってのは、動物や植物の『命』をそのままアンプにして鳴らしてるってことだな。楽器に骨や皮を使うのは、結構世界的にやってることなのかね。そういや、密教で使う法螺貝も貝の抜け殻か。石の声ばかり撮ってきたが、骨の音を現像するってのも、面白そうだな」
「櫂さん、ほんとに、よく知ってるのね…」
ブリザードが吹き荒れる、粗野でクールな成りをしながら、そのスモーキークォーツのような瞳には、隠しきれない好奇心が少年のように煌めいていた。
佳帆は、自分のオタク語りに対して、これ程打てば響く共鳴をする人を他に知らなかった。
「で?いつ出航するんだ?」
「あ…、6 月、夏至の予定!場所は、竹生島と長命寺」
「長命寺?余呉湖じゃねぇのか?」
「余呉湖では、朝霧の写真をお願いしたいの。まだ季節じゃないから…」
「まぁ、そりゃそうだな、冬に行くか」
即座に携帯を開いてスケジュールを打ち込む櫂を横目に、佳帆は先ほどの櫂の言葉を反芻し、これから櫂と編む本が、素晴らしい完成度となることを確信していた。
時の種子。
芽吹きはじめたこの種を、タイムカプセルにするのだ。薄れゆく記録を、いつか復活するための手掛かりとして。未来は、記憶の蓄積なのだから。
To be…

―――
注
言挙げ ἄειδε θεὰ
ヒンドゥー教の「ヴィシュヌ神」
マッハニレス(Machynlleth)

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