【 Tone 1.滋賀 にほの海 】phrase 2 長命寺の磐座 ~ This muddy vesture of decay(この朽ちゆく泥の衣)~
- Aureilia

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【 Phrase.2 長命寺の磐座 】
長命寺——その名の通り、健康長寿・無病息災のご利益があることで有名な古刹には、初夏の熱気も鎮まるような苔むした石段がそびえていた。
第12代景行天皇の御代、武内宿禰(たけのうちのすくね)がこの地で長寿を祈ったのが始まりとされている。頂上付近には今も原始祭祀の面影を留める磐座(いわくら)がある。

古代、長命寺が位置する姨綺耶山(いきやさん)は、琵琶湖に浮かぶ「島」(あるいは湿地帯に孤立した半島)であった。船でしか近づけない特別な聖域であり、湖上の島は、古代人にとって「蓬莱山」のような不老不死の地、常世(とこよ)と重ねられていた。その後、聖徳太子がこの地を訪れた際、柳の木に「寿命を延ばしたいならここを祈れ」という不思議な文字を見つけ、千手観音を刻んで開基したという伝説が残る。
境内には室町時代から桃山時代にかけて再建された本堂、三重塔、鐘楼(いずれも重要文化財)が立ち並び、琵琶湖を一望できる絶景スポットとして知られている。
登り始めて30分。重い機材バッグをものともせず軽やかに登る櫂は、時折スナップを撮りながら、周回遅れの佳帆を振り返った。
「社長。へばってんじゃねぇか?」
「…、はぁっ、し、失礼な…!この808段の『八』は、日本の聖数。仏の加護を受けて、無限の功徳に、私は見守られて―」
「見放されて、の間違いだろうが。ほら、ちょっと水飲め」
肩で息をしている佳帆を見かねて、軽く封を開け、すっと差し出されたペットボトル。いつの間に用意していたのだろう。星景写真家として、世界中の過酷な岩場を登山してきた経験値は、伊達ではなかった。
かつて、長命寺に詣でれば寿命が延びると信じられていた。だが、ご利益を得るためには、この険しい石段を一歩ずつ自らの足で登り、煩悩を振り払う必要がある。多くの困難を乗り越えることこそ、仏の境地に近づく修行そのものと考えられていた。
「さ、さすがや…。ありがと、櫂さん…。って、何してはんの?」
「うるせぇ。今、俺の人生の10秒を、こいつに捧げてるんだよ」
櫂は、古代の自然信仰を色濃く残す磐座、「六処権現影向石(ろくしょごんげんようごういし)」に向かって、じっと修行僧のように固まっていた。

佳帆が後ろから覗き込むと、櫂が愛用している文鎮の如く重厚な、SIGMA SD1 Merrillの小さな赤いランプがチカチカと明滅している。
「……櫂さん。何か、カメラ壊れてへん?まさかフリーズ?」
「……しっ。『石の呼び声』が聴こえねぇのか。今、こいつが『地球の記憶』を噛み砕いてる。邪魔すんな、社長」
「噛み砕くって、ただの保存やろ? 新しいスマホなら一瞬やんか」
「スマホと一緒にするな。こいつはな、SIGMAの写真哲学と信念をそのまま形にした伝説のフラッグシップ(発売当初70万円)だぜ。今のヤワなデジカメみたいに勝手に色を推測するんじゃなく、Foveon X3ダイレクトイメージセンサーが光の三原色(RGB)をシリコンの層で垂直に受け止めるんだ。こいつが叩き斬った絵を見たらわかるぜ。空気の粒まで写るような生々しい質感を。一度体験しちまったら、他のボディなんて『おしろいを塗ったような眠い絵』に見えちまう」
俗に、SIGMAユーザーの間で「Merrillの呪い」と呼ばれる、もう他のカメラに後戻りできない不治の病を引き起こす現象を、喜々として櫂は語った。
「中判カメラに匹敵する圧倒的な解像感と立体感。外装はマグネシウム合金の防塵・防滴仕様で、過酷な現場でもビクともしねぇ。クソ重てぇデータの保存には十数秒かかるが、その待つ時間すら、岩石の記憶と対話する極上の贅沢なんだよ。俺たち職人のための最強の名刀が、今光を嘘偽りなく全部飲み込んでるんだ。書き込みが終わるまでの待ち時間こそが、石と俺が対話する『礼拝』の時間なんだよ」
「えぇっ、そんなん、シャッターチャンス逃すやんか!」
「お子ちゃまのお前にはSIGMAの美学がわかんねぇんだよ。会津の職人魂をなめるなよ」
「え? SIGMAって、会津で作られてるん?私のお箏も、会津桐で出来てるって伝わってる…」
「ほう。雪深い極寒の地で磨かれた道具にこそ、魂が宿るってもんだ」
わかってるじゃないか、と頷く櫂のカメラに、佳帆は興味をそそられた。消えゆく日本の伝統職人の仕事をアーカイブしていくことも、『羽衣本』編纂の目的の一つなのだ。

「しかし、そんなに息切らしてまで、何でこんな高いところまで来たかったんだよ。琵琶湖が見たいだけなら、下からでも見えんだろ」
808段という過酷な石段を登りきった佳帆は、まだ荒い息を整えながら、眼下に広がる広大な水鏡、「にほの海」を真っ直ぐに見つめていた。初夏の傾きかけた太陽を受けてきらめく水面を渡ってきた風が、汗ばんだ襟足を心地よく撫でていく。夕暮れが近づく湖面は、陽光を反射して琥珀色に輝いていた。
「真帆を、感じたかったん……」
「真帆?」
「そう。『〽 眞帆あげ 歸る 矢ばせがた』……。近江八景に謳われる名所の一つ、『矢橋帰帆(やばせのきはん)』」

佳帆は振り返らず、湖を渡ってくる風に乱れた髪をそっと押さえた。
「……櫂さん。『舟』って、ただ人や物を運ぶだけのもんやないんよ」
「あ?」
「遣唐使の時代。玄宗皇帝が設置した国家図書館、『集賢殿書院(しゅうけんでんしょいん)』の蔵書数は、およそ5万巻〜8万巻程度だったと言われてる。遣唐使たちは、唐の皇帝から当座の生活費として下賜された『布』を資金に替えて、当時発刊されていた本のほぼすべてを、荒れ狂う海を渡って持ち帰ってきたの。……お大師様が持ち帰らはったんは、『宿曜』だけやない。土木に薬学。『飛白体』っていう、蝶や鳥を書に描いて『妙法蓮華経(方便品)』の宇宙観を表した文字や、サンスクリット語を研究する『悉曇学(しったんがく)』まで、多岐にわたってた。その前の聖武天皇の時代には、玄昉(げんぼう)が一切経を。吉備真備が武器や科学機器を。中には、方響(ほうきょう)っていう鉄琴や、測影鉄尺(そくえいてっしゃく)っていう天体観測のための道具もあったの」
「兵器に楽器にスケール(ものさし)か。まるで、動く図書館だな。この世の『知』の全部を、持ち帰ろうとしたってのか」
「そう。まさに、文明ごとインストールする、国家的なOSのアップデート。……やから、舟っていうのはね、太古から『知識と記憶』を運ぶための乗り物やったんよ」
「集賢殿書院」は、単なる図書の保管場所ではない。皇帝の諮問に応じ、国家事業の編纂を行うブレーンの拠点として、超難関国家試験である「科挙(かきょ)」を、トップクラスの成績で突破した学士たちが集う、知の殿堂だった。
さらに、合格しただけでは不十分であり、文学的才能、歴史の知識、書道の腕前が抜きん出た者が選ばれていた。最高責任者は「集賢殿学士知院事」と呼ばれ、宰相(さいしょう)クラスの重臣が兼任し、強力な権限を持つ国家機関だった。

「吉備真備はね、天才的な能書家として、外国人留学生として異例の、公的な『墓誌(ぼし)』を書く人に抜擢されたの」
「墓誌?」
「そう。真備が揮毫(きごう)したことで有名なのが、唐の官吏だった人のために記した『李訓墓誌(りくんぼし)』。墓誌っていうのはね、いわば、『魂のパスポート』。死者の使命や家系、生前の功績なんかを石や瓦に刻んで、お墓の中に埋めたもの」
「エジプトの、『死者の書』みたいなもんか?」
「似てるけど、少し意味合いは異なる…。冥界を突破するための『死者のためのガイドブック』が死者の書やとしたら、墓誌は『死者のための身分証明書』…魂の履歴書だったの」
地下に埋められた墓誌は、たとえ国家が滅びても永遠に残る。「わが名は消えず、歴史に刻まれる」という強い意志の現れだった。
墓誌の文章は、「序(じょ)」と「銘(めい)」の二部構成で成り立っていた。序(散文)は、事実関係を淡々と記す「記録」。銘(韻文)は、死者を悼み、その徳を称える「抒情性」が重んじられていた。
「墓誌は、記録であると共に、故人の徳を称える『文学作品』でもあったの。真備は、当時スタンダードだった五言や七言の漢詩よりも古い、最古の詩集『詩経』を基にした四言詩(しごんし)を使った。典雅なリズムで被葬者の高潔さや損失の悲劇性を謳いあげたの。例えば、『山河は変わらぬが、人は露のように消える。これほど優れた人物を失ったのは、天の損失である』みたいにね。普遍的な無常観を、格調高い言葉で表現した。このスタイルが、唐の文化人にとって最大の供養だったの」
当時の唐は、書聖「王羲之(おうぎし)」の流れを汲む書道文化の黄金期だった。書の本場において、外国から来た留学生が公式な碑文の執筆を任されるというのは、異例中の異例、現代で言えば「外国人がその国の国宝級の記念碑の揮毫を頼まれる」ような快挙である。
「『書』はね、単なる習い事じゃなかった。その人の人格を表す、知性と教養、『魂の格付け』そのものだったの。真備は、1度目の17年に及ぶ留学生活で玄宗皇帝の寵愛を受けて、『銀青光禄大夫(ぎんせいこうろくたいふ)』という破格の地位まで授かった。儒教、天文学、音楽、兵法、さらには囲碁に至るまで、高い教養を修養していた彼が帰国する時は、国家機密の流出レベルで、皇帝に強く慰留されたほどだったの。諸説あるけど、その膨大な知識で、カタカナの原型を作った一人だとも伝えられてる」
「吉備真備って、そんなヤバい奴だったのか」
「メールにも書き送った通り、真備が持ち帰った最先端の『兵法』で鎮圧されたのが、藤原仲麻呂。この後、孝謙天皇の右腕となった真備は、後に道教の『宇佐八幡神託事件』に巻き込まれていくことになる——」
「宇佐神宮か!この間ちょうど左官の助っ人で立ち寄ったぜ。通常公開はされてねぇが、呉橋っていう舟みたいな橋があったな」
「そう!宇佐神宮もロケ地候補なの。主祭神の比売大神(ひめおおかみ)……。何の神様なのか謎とされてる。海を渡ってきたという神話もあるし、水神としての側面も持ってる…」

佳帆のブルー・アンバーの瞳に、静かで熱い光が灯り始める。
「遣唐使たちは、ただ文書を写し取る書記官やなかった。今で言えば『国立科学技術研究所』の首席研究員みたいなもの。文官として、時に武官として、国家の歴史を編纂し後世へ伝える、記録保管の最高責任者。古代のアーキビスト(記録保管人)たちが、命をかけて集め、海を越えて伝えてきた、文明の数千年の記録。そして、数十億年分のこの星の記憶をアーカイブして、もう一度、星の海へ船出する。……私が立ち上げた『星舟舎』は、そういう想いで名付けたの」
「……」
櫂は、レンズキャップを外そうとしていた手を止めた。
「それにね…これは、私の名が負う宿命なの。『帆』って字、風を受けて舟を進めるためのものやろ?」
「まぁ、そうだが」
「私の母、『眞帆(まほ)』っていうの。私の女系に代々受け継がれてる『帆』の字もそう。……1890年、和歌山の串本沖でトルコの軍艦・エルトゥールル号が台風で座礁した。その時、村の人たちは冷たい海に飛び込んで、自分たちの食料を削ってまで、見ず知らずの異国の水兵たちを助けたの。この時の記憶を忘れなかったトルコ人は、その95年後、イラン・イラク戦争の戦火の中、危険を冒して日本人を故郷へ送り届けてくれた……。約100年経っても、友愛の証は薄れなかったの」
「あんたの瞳が青と琥珀のバイカラーなのは、そのせいか」
櫂は、半逆光に透けて光彩陸離の輝きを放つ、「サン・スパングル」を見つめた。琥珀の内部に何千万年も閉じ込められていた記憶が、熱を帯びて弾けた時にだけ生まれる、黄金のインクルージョン。それは、生命の輝きだった。
「そう。来孫(5代目)なの。私の母方の血脈ではね、代々、女の子の名前に『帆』の字が受け継がれてる。志帆、帆津美、香帆子、眞帆。そして私…佳帆」
風に乱れた髪をそっと押さえながら告げる佳帆の声は、夕照に溶けるように静かだった。だが、そこには揺るぎない芯があった。
「おばあちゃん、終戦の直後に昭和南海地震に遭ってるの。海の彼方まで、丸太のように人が浮いてたって……。でも、先祖代々伝わる『津波石』が置かれた場所まで逃げた人は、助かった。 エルトゥールル号も、後世の人に危険を知らせるために置かれた津波石も、みな同じ」
佳帆がゆっくりと振り返る。
「……記録を残すの。命を繋ぐ友愛の記憶を、絶対に忘れないために」

山の稜線に沈みかけた残照を背にした彼女の瞳に、強い光が差し込んだ瞬間、櫂は息を呑んだ。普段は薄い青琥珀色の双眸が、今はアーキビストとしての極限の使命感で奥底に魂が籠り、宇宙の深淵のような「クンツァイト・バイオレット」の強烈な光を放っていた 。
「……っ」
櫂の理性が、その紫の光に完全に焼き切れる。
長命寺の深い木立がもたらす、露出アンダーな空間。光を大食いするFoveonセンサーのダイナミックレンジでは、この微細な光量で虹彩に宿る星の瞬きを留めることはできない 。彼は無言で機材バッグから高感度に強い LUMIX S1R を引きずり出すと、バッグの奥で鈍い光を放つ単焦点レンズ—— SIGMA 85mm F1.4 DG DN | Art を、金属マウントに冷たい音を立てて噛み合わせた。
便利で明るい大三元ズームなど、彼の辞書にはない。「画角は足で稼ぐ。解像度と明るさで妥協するズームレンズなんて邪道だ」と言い切るのが、星野櫂という男だった。
チャキッ、と無機質な音が長命寺の静寂に響く。
「……え、櫂さ——」
「動くな、社長。俺が最高の光で抜いてやる」
櫂は人ひとり分のソーシャルディスタンスから、逃げ場のない距離までレンズを佳帆に突きつけ、ファインダー越しに真っ直ぐに射抜いた 。巨大な前玉の奥で、スモーキークォーツの瞳が猛禽類のように細められる。
「能書きは後で聞く。……今、あんたのその息切れした乱れ髪と、限界まで熱を持った『紫の瞳』……その石の光を、俺のレンズで一番奥までブチ抜いて現像してやるって言ってんだよ」
カシャッ——!!!
夕闇が迫る長命寺の静寂に、LUMIX S1Rの重厚なメカニカルシャッターの音が鋭く響き渡る 。
中望遠の圧縮効果と、F1.4という極薄のピント面。大口径レンズが描き出す、とろけるようなトワイライトの背景ボケ。それは、彼女のポートレートを撮るためのものではない。彼女の眼球という「紫の石」だけを、周囲の空間から完全に切り離して現像するための、最も狂気的な画角だった。
佳帆は、自分の脳の奥底にある記憶まで、巨大なレンズで貫かれたような圧倒的な支配に、石段にへたり込みそうになるのを必死に堪えていた。
収斂された光の粒子が、彼女の視神経を通じて「第三の眼(松果体)」の扉をこじ開ける。まるで、冷たく冬眠していた時の種子が、強烈なストロボを浴びて放射化したように、佳帆の奥深くで未知のパルスが振動した。

「……っ、死ぬ……ほんまに、膝が……っ」
張り詰めた白兵戦のような撮影を終え、2人は帰途に着いていた。
ゼェゼェと肩で息をする佳帆。石段は、下りの方がキツイのだ。その横で、櫂は余裕の表情でLUMIXのモニターをプレビューしていた。
「ほら見ろよ、あれが安土城だ。燃え落ちる前の天守閣は、天までそびえるバベルの塔みたいだったんだろうな」
などと、疲れも見せず暢気に景色を眺めている。
100段ほど進んだだろうか。ふと、佳帆の耳に、聞き慣れた車のエンジン音が聞こえてきた。音のする方を見上げると、本堂から少し下った裏手の斜面に、舗装された立派なアスファルトの駐車場があり、そこから参拝者が連れ立って歩いてくるではないか。
「……え?」
佳帆は、自分の生まれたての小鹿のように震える足と、涼しい顔をしている観光客を交互に見比べた。そして、隣でニヤニヤと笑いを噛み殺している大柄なカメラマンを、般若のような形相で睨みつけた。
「……櫂さん。あれ、何? なんで車が、あんな上まで来てるん?」
「あ? ああ、山上駐車場だな。あれなら本堂まで10分もかからねぇよ」
「…………は?」
佳帆の声に、地を這うような低音の凄みが滲む。
「ほな、なんで私ら、湖畔の『0段目』から登ったん……? 車、余裕であそこまで行けたやんか……!!」
「おいおい、社長。自分でメールに書いてただろ? 『長命寺の磐座は、断層が放つ磁場の鼓動を感じる、天への巡礼路だ』って。ゼロから自分の足で登らねぇで、何がヤコブの梯子だ。俺はあんたの『宇宙のインフラ調査』に付き合ってやっただけだぜ?」
悪びれもせず、シレっと言い放つ櫂。 だが、その眼の奥には、「あんたのその紫の石の光を引き出すには、808段の修行が必要だったんだよ」という、カメラマンとしての圧倒的なエゴと、サディスティックな悦びが煌めいていた。
「〜〜〜〜っ! この、性格ねじ曲がったドSの変態石頭カメラマン!! 駐車場まで、私を駕籠(かご)に乗せて運びなさいよ!!」
「ばかやろう。俺の背中にはもう、1億8700万画素の超絶重てぇ『光の記憶』が乗ってんだよ。帰りは自力で歩け」
薄暮の琵琶湖を吹き抜ける風の中、息も絶え絶えにキレる佳帆と、意地悪く笑う櫂の姿があった。
文句を言う佳帆を容赦なく急かしながら、2人がようやく山の麓に停めたラパンへと戻ってきた頃には、辺りはすっかり宵闇に包まれていた。
「……あー、ほんまに疲れた。足、ガクガクや……」
助手席に倒れ込むように乗り込んだ佳帆の横で、櫂はカリマーの巨大な機材バッグを後部座席にドサリと置いた。そして、手元に残していた愛機からレンズを外し、長く骨ばった手で丁寧にキャップを閉める。
「……今日のSIGMAは、営業終了だ」
「えっ?」
「SIGMA好きなら常識だぜ、社長。光を丸ごと飲み込むFoveonセンサーは、17時過ぎて太陽が落ちたら、ノイズの海になっちまう。暗闇じゃ使い物にならねぇんだよ」
「夜間営業せぇへんカメラに、70万の重課金…?」
カメラ沼の恐ろしさに震えあがる佳帆を尻目に、櫂はカメラを宝刀のように大事にバッグへ仕舞うと、運転席に乗り込み、ドサッと背もたれに体重を預けて大きく息を吐いた。そして、低照度の車内で鈍く光る煙水晶の瞳を佳帆に向け、ニヤリと笑う。
「社長、今日はこれでクランクアップだな? ……こっから先は、もう仕事じゃねぇ。腹減って死にそうだ、うまいもん食わせろ。近江八幡の店、ナビ入れてくれ」
「……はぁ。ほんま、定時上がりなんてお役人みたいなカメラマンやわ。はいはい、近江牛のええお店、予約しとくわ…」
呆れながらも、佳帆の胸の奥で、張り詰めていた「社長」としての緊張の糸が、ふっと解ける音がした。
To be…

―――
注
書記官とアーキビストの違いについて。
▼ Tone 1 phrase 1 をもう一度読む




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